October 08, 2012

旅の写真。


私が旅先で撮った写真には人物が写っているものが少ないです。景色を撮るように、動物を撮るように人にカメラを向けることに抵抗があるから。「撮って!撮って!」って言う子どもたちを撮る、話をしている間に少し親しくなって記念に撮る、なんて場合に限られてます。まあ、中東やアフリカなど、そもそも街中でカメラを構えること自体が不穏当な行動と見られがちな地域の旅行が多かったというのもありますけどね。

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昔、旅先で撮った人物の写真に迫力があって、仲間内から「すごい」って言われていた人の話を聞いたんですけど、その人は、「もう一歩近づく、寄るのがコツ。」と言ってました。たしかにその人の写真はその町で暮らす普通の人の顔がアップになってて、その顔からその町の様子が想像できるような写真でしたが、私はその人の撮る人物写真がいまひとつ好きになれませんでした。もちろん、その人の前では「いい写真ですねー!」とか大人の対応してましたけどね。

好きになれなかったのは、人をただ被写体としてしか見てないその姿勢だったのだと思います。写真を撮る人と撮られる人を俯瞰して第三者の目で見たとして、その情景がきっと愉快なものではないと思えるような写真だったんですよね。不躾にカメラを向けられ、さらに近寄られ、アップの写真を撮られる。それを喜ぶ部外者の撮影者と、愉快ではない被撮影者。そんな情景が1枚の写真からでも想像することができるんです。写真そのものとしては非常によく撮れているものでも。

同じように旅先の人々に近付いてアップを撮っている写真でも、被写体となっている人と撮っている人の間のやさしい関係が思い浮かべられるような素敵な写真をたくさん撮っていらっしゃるのは三井昌志さん。まだ正式に「写真家」を名乗られる前に都内で個展を開かれたときに作品を見せていただいたことがあります。写真を撮る人と撮られる人の様子を第三者の目で見て、そこに微笑ましい情景があったのだろうと思わせられるような写真がいくつもありました。被写体を人として敬い、慈しみ、愛でる気持ちが写真にもちゃんと滲み出るものなんですね。

これだけ高性能でキレイな絵が作れるカメラが普及しても、出来上がった作品には撮る人の「人となり」を物語るところが出てしまう。テクノロジーが進んでも写真が芸術のひとつの分野になっていることも理解できます。

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私の写真に人物の写真が少ないのは、被写体は人であって物ではないという当たり前の気持ちがズケズケとカメラを向けることを躊躇させるから、そして親しくなってもその人の写真を撮らせてもらうという流れにはあまりならないから、要はそういうことなんです。


(※このエントリに掲載している写真はすべて筆者撮影、それも1996年頃にフィルムカメラで撮ったものです。)